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昭和44年12月21日 特別奉修員
金光様のご信心はと、言うよりも合楽の信心はと言った方が、ぴったり来るかも知れませんですね。その合楽に御神縁を頂いて、ご信心の稽古させて頂いているものがですね、日々に活き活きとした信仰体験が、頂けていなかったらもう値打ちはないですね。もうこれはね今の金光様のご信心「?」を言うと、日々にあの日々あのひしひし、神様のご守護をうけているんだな、神様の働きだな、もうどうして間違いのないこちゃっろうかなぁと言う事をズッートとね。
感じさせて頂けれるおかげを頂く私はあの、言わば合楽では教導を皆さん受けていると思いますよね。ですからもうその体験がねあのぽつんぽつんとなって来たら、もうやっぱ信心がぽつんぽつんとなって来た時であるしね、ですからそこん所の信仰体験を持続して行く為に、お参りが楽しゅうなり修行が尊いものになってくると言う、おかげを頂かなければいけんと思うですよね。
昨日菊栄会に久しぶりに入らせて頂いて、偶々話しが先月からの椛目のあちらのあれは下が借地になっているんですよね「?」のおばさんて言う所が地主さんなんですよ。ほいで先方から以前再三買ってくれと言った話しがあってましたけどね、あんまり法外な話だったもんですからそれを買う気にもならなかったんですね。ところが偶々あの話しがまとまりかけてたんです。
ところがそん時、隣の原口さんところの土地が、全部買われた訳ですね。あれだけのところ「?」買われたそうですよ。どげん考えたちゃあぁた、何十倍ち言う金どうなさるですかち、もう兎に角その言う事が癪に障るち言う訳ですよ。あんた金光様は、ばさらか金もっちゃでしょうもん、あぁたどうせ大坪さんがださっしゃけんでああた、皆な信者どんが出すとじゃけんで、ええじゃんのち言う言い方をさっしゃたけん、それだけでん買われんち言う事だったんです。
なんちゃもう金光様ちゃなんか金実際は、そうでもないのにやはりこうやって、御造営なんかでけて行きよると、本当に金はいくらでもある事、信者に言やなんぼでも信者金出すごたる風に、その事言われて、そりゃ長年借りて来てからお世話なってきとんだから、決してそげなね、あのもう自分がた家がたっとうとじゃから、あんた安う家賃あの地代でね、地代で買った方がええと、言うならもう安うしか買わんばのちごたる、そう言う厭味な事は言やせん、こっちももうそりゃもう5倍十倍て言う事ならね。
問題はないとですよ内も、所がそれがその高橋さん達がチョット話ししておりましたが、福岡タウンのそげんするとはとても安かもんじゃけん、買うち言うごたる風なとこまでいっとったとですよ、所が偶々丁度原口さん所が買われてです、宮崎さんそれを知っておられてからこうこうだったと、と言うので非常にその、まあ買うと言う側、買わんと言う側それでこちら自身も、二つに割れておったような感じだったんです。
それでまた偶々向こうから、手紙が参りましてから、急遽にかたずけてくれと言ったような、その話しが、昨日取り上げられてあった訳です。それでもう本当にガッカリするような事を、その言ってる訳なんですよね。ほんで私が、あんたどん可笑しいはないか、と私が言うんですよ。例えば月賦で、月々五万か十万づつだして買うとかね、「 ? 」だから例えばあんた、ほんなこてそんあんたどんがそんな御用しよって。
おかしくはなかかと私しが、一人十万円づつ出したら片付くとぞ私しが、と言うてね、そんならわたしゃあの皆さんにね、それを本当に実際の所ねあの出してくれとも言わんばってん、ほんなこつ言うならこれを菊栄会に取り上げ、菊栄会聴かんに取り上げとるなら、もう「??」おかげどこじゃないかっち言うたっちゃよかどちあたしが言うた、例えば合楽での菊栄会の言わば買う側から言うならですたい。
それを例えば何とかかんとか、その言うてからと言ったような話しの半ばにあの、そこに田中さんが妹さん夫婦に今度赤ちゃんが出けましてね、あの宮参りに宮参りち言うかお礼に出て見えとるちこう、言うて来ましたからね、所謂田中さんそして新しく赤ちゃんが生まれられたと言う、それからあたしゃすぐこちらへ立ちながら、ほら見てご覧神様はもう田中とはその事だろうと。
生まれると言う事はここに生まれてこなきゃならん、言わばもう陣痛を感じるんだと、あちらからやあやあ言われようとじゃない、神様がやあやあ言いござるんだと、言った様にあたしゃ言ってこちらに立ってきたんです。そして赤ちゃんいつもの様にお届けさせて頂きましてね、そしてその赤ちゃんの名前はなんて言うかねと聴いたら、鶴忠義さんち言うんですね、名前が鶴て言うのが苗字、忠義は忠義と書いてある。
あたしが今話してきたばかりち、それでそのあんた達ね例えば忠義をしてくれと言うてね、あたしが頼みようとじゃない、ほんなこつ言うとあたしより立派なさっきの御理解じゃないけども、立派な大将になりさせすりゃもうそれこそ、忠義はすんなち言うてもする事成ってくる大体は、けどもねその忠義の心がそのないて言う心はですよ、結局これは大将がぐずぐずしとるけんだと。
言う事に結論すればなる事だけれども、けれどもうならあたしが今またお取次ぎおわってから、行ってから今度また話したんですけどね、今の赤ちゃんお届けさせて頂いたら、鶴忠義さんち言う人の初参りじゃったち私が、だから鶴と言う事はあたしが亀に対する信者は鶴と仰る。ここに松の根方に亀がこうやっておる、それに言わば鶴が通うてくると言うのが、ここのね松と言うのは勿論桂松平先生のご信心に対して。
あたしの亀の信心ここにあって、そこに沢山の鶴が通うてくる。そこに始めて鶴亀が舞い遊ぶようなおかげになるとよち、言うて、だからまあ仕方もなか鶴亀じゃろばってん間違いないそれこそ大亀様じゃ、力君の作文じゃないけれどもああ言う事でもですね、本当におそらく力君の書いた作文ないつまででん残っとると思います。ここに書いとりますから、又素晴らしいですもんね。
だからそのもじってじゃなくてその大亀様と言うその作文を書いとると言う事なんか、もうあたしにとっちゃもうひしひしね、もうそうでなからなければいけないと思う事があるとですよ。ね、その大亀様んとこに鶴が忠義をさして貰うと言う事はね、そこんにきまあ鶴亀の舞い遊ぶと言う事はです、うなら鶴と亀とがあいよかけよと言う所になってくるじゃないか、今あたしがお取次ぎした人は言わば鶴忠義さんじゃったよってあたくしが、あたしがあんた達に今話して立ってから。
今あたしがそのお届けさせて頂いたらこう言いよったが、こげんも神様の働きがもうそれこそ噛んで含めるように、もの言うて聴かせござるとじゃなかとわたしが、と例えば言うようにです。あたくしの場合には神様の信仰体験って言うのがズーットとこう繋がっているでしょう。そこにね我が身は神徳の中に生かされてあると言うか、本当に神様のこげな微妙な働きの中にあるとだから、どのような事でも辛抱が出きん事はない。
しかもその辛抱も有難いと言う事になって来るのですよ。ですからあたし本当にお道の信心とこう、まあいいたいけどもそれではあまりにも実際には、現在お道の信心にはそのようなものがかげているんです。そのように受けてる人がないとです。ここでは私が受けておるから皆もその教導受けておるから、皆さんでもそうでしょうが、日々が本当に神様の妙なる神様のお働きの中にあると言うことを。
いろんな意味から実験させて貰うでしょうが、それこそ本当にそこに神の声を、そこに聞くように神の姿をそこに見るように、日々の体験が生まれて来ると言うのが、金光様だから有難いのですよ。ですからあたしゃ只お願いさせて頂いて、その事がおかげ頂いたと言う程度の信仰体験なら、金光教の信者が皆な持ってるからやっぱ信心止めきらんでおるとですからね。
けれどもその日々刻々と細かく言うたら、毎日が本当にそう言うような信仰体験を頂かせて頂けると言う所に合楽の信心の値打ちがあると思うんですよね。先ほど久富くにかさんがお届けされますように、先生が大きな講堂んとこにここの信者がイッパイおる中にですね、その胸の古木をあげよと言うて、言われる所を頂いたちこう言うんですね。ですから勿論信心辛抱の事でしょうけれども、その信心辛抱して行く内にです、なんとはなしに風格が出来なければ駄目です。
信心の風格と言うものが、例えば梅の花が咲いその梅の花の古木やはり梅の花が咲き風格があるでしょうが、梅の、だからお互いがこりゃ自然と出きるものでしょうけれども、信心の風格を作ると言う事が日々活き活きした、信仰体験から生まれるて来る古木でなからなければ。只梅がここに梅の木がある、古木だけはこうやって横から持って来た、いっちょんつまらんですね。
根のある古木じゃなからなければ行けませんものね。だからそう言う所をあたし信心のある意味で堂々たるもんだなあと、例えば見えて来るような信心て言うのは、やはりその信心辛抱の同時に、その信心の風格を作る、そう言うものがあたくし共にまだ若い信心ですから、そんな風格が出きる筈がないけれども、やはり目指す所はそこ
(録音終了)